霞ヶ浦の歴史
明治政府は、本来の流路に近く、河床勾配もきつい江戸川を利根川主流にしようとする「江戸川主流論」などの影響もあり、すぐには水害が激化した利根川の治水方針を明確にできないままであった。しかし、足尾鉱毒事件が発生し、田中正造らの活動によってその被害がつまびらかにされていくにつれ、霞ヶ浦や銚子方面を利根川主流とする方針が明確になる。当時、政府は銅の産出を止めることはできず、なおかつ人口密集地でもある東京方面の被害拡大は避けねばならなかった。そのため、利根川主流を銚子方面に定め、より多くの水を流下させる方針が固まるのである。
この方針は結果として霞ヶ浦の治水対策を強化していく事情につながる。明治後期に始まったこの大規模な利根川水系の河川改修は、横利根川に横利根閘門を建設するなどして利根川と霞ヶ浦水系を分離するもので、利根川との合流点を現在の常陸川水門(逆水門)がある地点まで引き下げて事業は1930年に竣工する。しかし、1938年6月に霞ヶ浦の近代治水史上最大の大洪水が発生する。「昭和13年の洪水」として人々に記憶されるこの洪水は、霞ヶ浦から利根川に合流する水路の排水能力不足が原因となり、霞ヶ浦は1ヶ月以上も湛水する結果となった。この洪水で土浦市では市街の大半が浸水。十数日も濁流が停滞したために赤痢等も発生した。
さらに1941年にはふたたび大規模な洪水が発生。完全に水が引くまでには2ヶ月もかかった。このときの洪水は利根川上流部で大雨が降り、その結果起きた利根川から霞ヶ浦への「逆流」が原因となった。
これらの二度にわたる大洪水は1939年に起工された利根川増補計画の教訓となり、常陸利根川と利根川の合流点に逆水門を建設し、新たに西浦から外浪逆浦を経由し鹿島灘に直接排水する「霞ヶ浦放水路」が計画されることとなった。しかし、この計画は太平洋戦争が勃発したため、ほとんど工事が行われないまま戦後へと引き継がれることとなる。
水運
明治に入ると利根川水系に蒸気船が就航し、霞ヶ浦にもまもなく航路が開設されるようになる。航路には10社以上の船会社が参入したため会社間の競争は激しく、各社は犬猿の仲で、狭い水路で出会うとわざと船を衝突させて船員同士が喧嘩を始め、やがて乗客を巻き込んだ大乱闘に至ったこともあったという。
当時は土浦や高浜、鉾田などから銚子、銚子から東京に船で行くルートなどがあったが、1886年12月に日本鉄道土浦線(現在の常磐線)が土浦駅-田端駅間で開通。それまで、都心まで一泊二日かかったところが2時間の所要時間に短縮された。また、翌年に東京駅-銚子駅間で総武鉄道(今の総武本線)が開通すると長距離航路は急速に減衰していき、水運は霞ヶ浦と利根川下流域を結ぶ短・中距離航路へと性格を変えていった。太平洋戦争中には一部の船が徴用され便数も激減したが、戦後になって復活している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
中世の霞ヶ浦は汽水湖だったことがわかっています。
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